第8回公判 弁護側証人尋問
〜その8〜

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弁護人:最高裁は、刑法175条の主観的要件を「問題の記載の存在の認識、頒布販売の認識があれば足りる」としていますが、制作の意図や目的は、社会的有用性やわいせつ性判断に影響を及ぼすのではないのでしょうか?

証人:チャタレー判決も含めてそうですけど、「物自体を判断するということが175条の判断の仕方だ」という前提があるように思われます。
どういうことかといいますと、物自体に否定すべき価値、消極的な価値というものがあって、だから、それを否定するという考え方になっているんだけれども、メッセージを表す表現物というものは価値それ自身において問題になるよりは、その出版物がどのように利用されるかということは千差万別であり得るわけです。

 すなわち、ある人によっては鑑賞するに足る非常に面白い書物であったり、ある人にとっては娯楽のものであったり、ある人にとっては取るに足らない、買った途端に、見た途端に捨ててしまうようなものであったりという、そういうようなものであり得るわけだと思います。
そういうことの一切を捨象して、物自体において、これはいいとか悪いとかということを判断できるという前提でわいせつ規制法というものが成立してきた。それを、憲法が保障していることを実質的に考えることによって、今御指摘の部分は、成立するような前提が崩れてしまったということが言えるんだろうと思います。


弁護人:最高裁判例が「羞恥心の侵害」ということを言う背景に「性行為非公然の原則」という考え方がありますが、性行為そのものと、性の表現とは、同じレベルで考えられる問題なのでしょうか?

証人:表現の自由ということが、それ自体として問題になるような事態になってきたということの1つの大きな意味は、表現物はあたかも物理的な力と同じような力をもっているというふうに考える傾向があったのは、わいせつ文書との関係だけではなく、例えば、天皇制を廃止する議論と、それから、天皇制を廃止する物理的な行為、つまり反逆罪と不敬罪とを同じ法領域で規律していましたよね。それは、表現という人の精神作用にのみかかわる領域における社会的な行為と、人の物理的な行動にかかわるアクションというものとは同じだというふうに人々はずっと長い間考えてきて、アクションに結びつくから、アクションと同じだからということで、展開するようになった。

 「性行為は非公然でございます」というのは一般通念としてあった。だから、それを表現するほうも非公然でなくちゃならないというふうに考えたとき、性行為と性行為を表現する自由とは同一線にあり、前者が規律されるんだったら後者も規律されるべきだという論理で、議論が設定されていたというふうに思います。


弁護人:仮に公然と出版されても、見たくない人に見せないような販売形態を取って、買った人が自室で見るだけというふうな状態であれば、非公然の原則に反しないと思うんですが、いかがでしょうか?

証人:全くそうだと思います。物自体を判断して、物自体がそうだからという判定をするのでない限りは、人々の用いられ方、人々の鑑賞の仕方、人々の読む仕方によって様々であり得る、そういう観念の世界、精神の世界に入っていく出版物の場合には、おのずから、今御指摘のようなことにならざるを得ないというふうに、それは、憲法論としてそれしか言えないだろうというふうに思います。


弁護人:社会科学者のうちには、人間社会には、教育の場や国会議事堂など、性を語ったり性行為をしない「非性的空間」や「非性的人間関係」があり、そういうところに性的なものが持ち込まれることを防ぐだけで、わいせつ規制は必要十分だと言う人がいますが、そのような考え方について、どのように思いますか?

証人:憲法研究者として、憲法で表現の自由が保障されているということはどういうことかということ、そしてそれは、それぞれの表現というものの特性に応じて、表現が社会に出てきて、それが与える影響というものを考えた場合には、しかも、それを最大限自由にしなくちゃならないということを考えた場合には、表現がどのような場で提示されるかということが非常に重要になってくるばかりではなくて、どのようなレベルでそれが読まれるかということも大事になるわけです。

 ところが、物自体ということで言うと、プライベートで読もうと、公の場で読もうと、あるいは公共機関内で読もうと、いけないものはいけないんだという考え方になるんだけれども、先ほどから言っているように、人間の行動というのは、いろいろなレベルであり得る。

 今ここで問題になっているような表現というものは、非常に限られたレベルの中で、非常に私的な部分で、それだから許されるという領域で、我々はある種の寛容をするということが当然と考えられ、憲法はその当然と考えられることを保障しているのが表現の自由だとすれば、場によって規制する仕方というのはおのずから違ってくるし、場によって規制する仕方が違うのであれば、そのような法体系はそれに応じた区別をすべきだというふうに考えねばならないと思います。


弁護人:また、刑法の行為類型は自然犯であり、憲法の言論の自由の保障はそもそもこれらのものには認められないという考え方がありますが、憲法論として正当なものなんでしょうか?

証人:それは正当でないということをまず一言で結論として申し上げます。なぜかというと、いろんなレベルでそのことは答えることができるんですけれども、「自然犯」ということによって説明しようとする人の「自然犯概念」がめちゃくちゃに違うということがある。

 ある種の問題性を非常に抽象度の高いところで説明しきってしまい、それで説明できたんだというふうに考える人は、自然犯というものが「自分の観念としての自然犯」というもので全部説明できるというふうに考える。けれども、自然犯って一体何ですか? その背後にある自然法とは何か? なぜ自然法という観念があるんですか? というふうに、その人以外の学問の世界も含めて、あるいは裁判の世界も含めて様々な実践活動がある中で、ある人は特定の目的のために自然犯という言葉を使う。

 それは、先ほどから言っているように、全包括的に説明してしまうという目的との関係で「刑法で決まっていることは自然犯ですよ、自然犯だから当然に憲法を超えてあるんですよ」という言い方になってしまう。けれども、自然犯って何ですかということになれば、最近のアメリカの例で言っても「同性愛を規律することを、自然犯だ」というふうに言ったりする。「男と女は性が区別されているということは自然的ですよ」というふうに言う。そのことによってあらゆることを説明してしまうような誤りと同じ誤りを今ここで犯しているというふうに僕などは考える。
だから、その点で、憲法の「表現の自由」は、自然犯という大きな概念で説明することを拒否しているというふうに言えると思います。


弁護人:性表現の規制は、人類の歴史のあらゆる段階で、地球のあらゆる地域で禁止されてきたというものではないわけですね?

証人:ええ。ですから、自然犯だということは、あらゆる時代を超え、あらゆる諸国を超えて支配している当然のことだという概念があるわけですけれども、これは、実際の歴史に照らしていっても、多分、自然史でいっても、今御指摘のように、地域によって、時代によって、場所によって、随分違う。

 そして、今のようなわいせつ文書の取締りをするようになったというのは、人類の歴史からすると恐ろしく最近のことであり、それは、印刷物ができるようになったというだけではなくて、国家が権力を掌握する、ヨーロッパで言えば、それは同時にキリスト教の倫理を国家の倫理と考えるような出発点を持ちながら、その意味で道徳的なるものを規律することを前提とした上で出来上がったものがわいせつ法であったというふうに思われるので、非常に大ざっぱに言うと、絶対主義的な国家が成立することによって、わいせつ法というものが成立し、承認され、行き渡るようになり、全面的に理解されるようになったということだと思います。


弁護人:チャタレー裁判の後、次に刑法175条の合憲性が全面的に争われた事件が、69年10月に言い渡された、マルキ=ド=サドの「悪徳の栄え」事件だったんですね?

証人:はい。


弁護人:この判決は、8名の多数意見と、わいせつではないとする5名の反対意見に分かれたと思うんですけれども、多数意見は「チャタレー3要素」を踏襲したんでしょうか?

証人:ほとんどその点については異論なく先例として尊重し、その先例に則して、別な本であるところのサドの「悪徳の栄え」がわいせつというふうな結論を下したわけです。

 ただし、全くチャタレー裁判の判決そのものかというと、わいせつかどうかという判定方法ということでは、「チャタレー夫人の恋人」の場合には、ぽつぽつと幾つかの箇所でわいせつ的な言葉が語られ、わいせつ的な言葉がちりばめられているから書物はわいせつだという判定をした。それは修正すべきだと。なぜならば書物自身は、言葉がちりばめられているというだけでは足らないのであって、全体としてこれはわいせつ文書だという、全体としての判断があるべきだと判定を下したという点では、「チャタレー夫人の恋人」と一味違うと言えると思います。


弁護人:反対意見の内容についてはほかの部分で触れていただくことにして、更にその10年後に、下級審ですが、わいせつ文書ではないとして無罪判決を下した「愛のコリーダ」、地裁、高裁判決がありますが、この事件では、被告人側が、およそ国家はわいせつ文書を取り締まることはできない、もし取り締まるのであれば、いかなる根拠で取り締まるのかを明らかにせよと迫ったわけですね?

証人:そうですね。


弁護人:これに対する地裁及び高裁の答えは、どのようなものだったんでしょうか?

証人:これは、要するに、そういうことなしに、わいせつなものというものが最高裁の判例で決まっていて、規律することが当たり前であり、いまさら引っくり返すということはあり得ないといったような先例踏襲的な例え方を取っていたと思います。

 それは多分、あの事件の被告側は大上段に振りかぶって「およそどんな価値がなくたって、わいせつなものだと国家から言われる覚えはない」と真っ正面から175条の合憲性をはっきりさせようとしたのに対して、裁判所は「チャタレー夫人の恋人」の判決を踏襲しながら1点だけある種の説明をした。

 つまり、社会通念という考え方が、わいせつ判定の場合あるレベルで語られるわけですが、世の中の人々の考え方が変わるにつれて、性表現の自由というものについての幅が変化する。したがって、ある種の性表現についての社会的許容性というものが変容する。要するにズレが生ずる。ズレが生じたときに、ある種の許容度のそのズレに合わせて、何がわいせつかという判定をすることになる。つまり、社会的な許容度に従って判定が少しずつ変わってくるということで、社会が自由化をすれば、それに応じて、わいせつとは何かという判定についてもある種の反映が行われるから、かつてわいせつだと思われたものも今はわいせつではなくなるといったような性質のものであるのだという1点を、すなわち、その意味で、社会の許容度に合わせて、裁判というのがあるんだということで、「チャタレー夫人の恋人」のような大枠を設定し、それを肯定しながら、しかし自分たちの判決の正当性を、そのように、社会のズレを認識し、そのズレに合わせてこちらも判定をするんだというふうに考え、かつ、あの事件においては無罪判決をしていますので、そういうような意味で、ある種の正当な判決だったと思います。ただし、僕の理解からしますと、ここにもまたいろんな問題があり、いろんな考え方を議論しないままで、また次の時代まで持ち越されたという間題があるような気がするわけです。

 僕の言うのは、その歴史の流れの中で今を見つめようということになりますと、今御指摘の御質問というものはそんなに簡単なものじゃなかろうというふうに思うんです。ですから、簡単じゃなかろうと思うものを2つだけ今ここでお答えしようと思う。

 第1点は、社会のその性表現に対する受け止め方、許容度が変わるということがあり、で、裁判所は社会に通用する許容度に合わせて、言わば流動的に考えて、去年わいせつであったものが今年はわいせつじゃないというふうに判定するような弾力性のあるものなんだと考えて、で、それをもって裁判官はもちろんのこと、人々はこれで表現の自由というものは確保されると考えたと思うんです、当時。
で、それは、1つの重要な意味ではそういうふうに説明できるけれども、同時にその説明は、そのことによって原理・原則を問わない。つまり、なしくずしにそのときそのときに合わせてやってけばいいということになってくる。
で、憲法の「表現の自由」というのはそういうものなんだろうか? ということを実は考えさせられると。

 そのときそのときに許容度に合わせて、裁判所が「何がわいせつか」ということを判定する。変化するんだからそれでいいじゃないかと考えることによって、それで確かに自由がだんだん進むわけですよ。
今まで恥毛を写したらいかんと言われて、今はそうじゃなくなったということも許容度で説明できるわけですよ。
でも、そのような、そのときそのときの状況に合わせて自由化が行われていて、それしかないんだというふうに言えるかどうかという問題は別として、そういうふうになっているから表現の自由が保障されているんだというふうに考えてることによって、「チャタレイ夫人の恋人」の判決は許容され、そして警察をはじめとした規制が承認されるという、制度それ自身に対しての根本的な批判、なぜそのような許容度に合わせてだったら許されるのですか? なぜ国家は規制するのですか? という根本的な問題をすべてここで卒業してしまったがごとくなんですけれども、何も卒業していなかったというのが第1点。

 で、第2点は、許容度が変化して、だんだん今まで許されなかうたのが許されるようになった、そういうふうに社会の需要、つまり、受け手の側の反応というものが違ってきたんだというふうに言えば、ああ、そう言えばそうだねというふうに思うんだけれど、よくよく考えてみると、許容度の許容性を決めるのはだれかというと、これは警視庁なんですね。
ほっといたら規律するんですよ。でも、規律しないということは、「公権力の不行使」を前提にしている。で、これが「わいせつとは何か?」という国家が決めるものだというふうにどうしても思っちゃう理由の1つがそこにあるんですね。

 許容度と語られているけれども、これは社会が許容したんじゃなくて、警察官が、あるいは公訴権を持つ検察庁がそれを起訴しなかったと。見て見ぬふりをしたということであって、去年は起訴したけれども今年は起訴しないといったような、そういうことは「社会が変わったんだ」というんじゃなくて、「社会が変わったねと公権力が判定する」ことの結果、つまり、公権力を行使しないことによって、あるいは公権力を行使することによって社会の許容度が決まるという点が、カーテンの向こう方に消えちゃっていたということ。

 本質は国家が決めることであり、国家の決め方が少しずつ変わったんだということが持っている意味、許容度というものは、決して、残念ながら市民が決めることじゃありません。
警視庁が摘発するかしないかによって決まっていくということがあって、警視庁が摘発しないんだから許容度を認め、そうだから自由なんだということを、最高裁、あれの場合は高等裁判所が語ってしまったということ、それでも僕たちは満足した、表現の自由が確保されたねと。
無罪だったということで済ましてしまう歴史の1コマがあそこにあったんじゃないかということを感じます。




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※尚、このレポートはメモ及び記憶を元に作成されており、あくまで公判のイメージを伝えるためのものですので、多少の記述の食い違いは御容赦ください。
※転載は自由です。
※制作は児ポ法改悪阻止青環法粉砕実行委員会が行なっています。 また、制作に当たり匿名の方の協力をいただきました。



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