第8回公判 弁護側証人尋問
〜その9〜

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弁護人:このわいせつ表現の規制という問題は、突き詰めていけば、なぜ性表現を規制するのかということと、国が規制できるという根拠の問題だと思いますが、アメリカでは、50年代くらいまでどのような議論がなされていたんでしょうか?

証人:1950年代までのアメリカというのは、これはほとんど憲法上の問題になりませんでした。コモン=ロー上、もうわいせつであるとか、名誉段損であるとか、神聖冒涜とか、もう憲法と関係ないよという時代がずっとあるわけです。1950年代まではそうですよ。そういう時代があった中で、ちょっとそれはおかしいんじゃないのという議論がではじめるのが50年代以降です。

20年代〜30年代以降、政治的な自由を制限する議論と法律があったために、表現の自由というものは政治的な表現の自由を保障するためのもの、そして、それはデモクラシーの観点から流れていたという考え方が、20年代〜30年代には出かかっていた。しかし逆に、政治的な問題ではないものはコモン=ローに従って、これはもう憲法の問題じゃない、表現の自由の問題じゃないと考えられた。
これは人間がだれしも犯すアナロジーなのですけれども、イメージ、文字という形をとっているけれども、これは暴力と同じ力を持っていると。人に対してショックを与える種類のもので、それ自体としてあるんだ。だからもう憲法の表現の自由がそこに入り込む余地がないというふうに説明されてまいりました。僕が憲法を勉強したのは正にその時期だったわけです。

それに対して、ちょっとおかしいんと違うかと、「ぶん殴る」ということと「表現する」ということと違うんじゃないの? という話が展開するようになったとき初めて、憲法論ではないと考えられてたわいせつの問題も、その他の問題、典型的には扇動罪がそうですけれども、それと一緒に棚から下ろされることになるのが50年代以降、60年代であります。

それで、そこで問題になるのは、せいぜい「チャタレー夫人の恋人」のポジションがそうであったような「絶対的わいせつ概念」物自体を取り締まるということでやってきたという問題です。そういう、物自体を取り締まって絶対的に規律してしまうということはやっぱりおかしいという話になり、まず第1に、わいせつ概念、わいせつの定義というものをきちんと定めなくちゃいかんし、その適用基準というのはいかにあるべきかというのも考えなくちゃいかんし、そして、その反面 、規律をすることに当然なるんだから、自由を規律することにならないような仕方というのは一体あり得るんだろうか?といったようなことが60年代、70年代に話が始まることになるわけであります。


弁護人:具体的な中身についてお尋ねします。まず「絶対的わいせつ概念」の立場から、その文書の持つ社会的な有用性なども考慮し、比較考慮をして決めるというふうな考え方が出てきたわけですか?
証人:アメリカの場合はそういう考え方、はっきり比較考慮というか、その前提としての「公共の福祉論」というのは、アメリカにはないものですから、それで説明しきっちゃうということはなかったもんですから、「物理的暴力と同じだ」というレベルで説明してきてしまったわけだから、出発点はそれをどう変えていくかという問題であった。
日本の場合には、戦後の歴史は公共の福祉論から出てきますので、これに対する対抗概念ということがどうしても問題になってくる。

アメリカでも、ある時期までは、いわゆる「バランス論」、バランスをとるという考え方が出てきます。対立する価値との間でバランスをとるということになると、おのずからわいせつ概念というものは絶対的なものじゃなくて、相対的なものだというふうにならざるをえない、そういう時代を迎えるようになるのが1960年前後だと思います。


弁護人:次に、その性表現がだれに向けて発信され、だれがそれを受けるのか、あるいはどのような脈絡の下で、それが発信されているのかを見ようというふうな議論が出てきたわけですか?

証人:出てくることになるわけです。
それは、表現という行為を、従来、表現する人、メッセージを発声する人だけの問題として理解してきたんですけれども、その人の行為を評価するについて、その人がどんなような意味を持って、だれに対して、どのような意図で発信したかという、コミュニケーションの問題なのだということになる。
コミュニケーションの理論というのは、「受け手の側から見ればどうか?」それから「発信する側から見れば情報が伝達されるということはどういうことか?」という社会学的、哲学的な問題になり、その中で無関係に法の実践が展開しつつある。
そうすると、おのずから、人々に対して説得力を失うということになるわけだから、それを合衆国の最高裁判所は、いろいろと対応しなくちゃならなくなってくると。それで、御指摘の「相対的わいせつ性」ということで、取りあえず柔軟な考え方を作っていこうということです。


弁護人:今おっしゃられた「相対的わいせつ概念」ですが、「模範刑法典」のわいせつの定義などはどのようになったんでしょうか?

証人:「模範刑法典」の場合、これは1957年ですが、ここで主として関心を持ってたのは「わいせつ概念をどれだけ厳密に規定できるか?」ということと、「社会的な価値、救うべき社会的価値というものをちゃんと拾えるだろうか?」というような観点から見たモデル法典だったと思います。


弁護人:アメリカの場合でも、当初は、政治的に意味のある言論、「思想の自由市場」などと表現されるような、政治的意見とその他の言論を分けると、そして自由の認められるものと不自由なものとを分けるという二元論があったようですが、それについて証人はどのようにお考えでしょうか?

証人:二元論じゃなくて、始めは、どんな諸国においてもそうだと思うけれど、表現の自由というものは一元的にすべて説明されたと思います。

それはどういうことかというと、まず、表現の自由は世の中にとって役に立つものであると。
つまり、それがもたらす効果が立派だから表現の自由は保障されるということで、表現の自由というものは顔を出し社会的に承認されるようになる。
で、それが憲法理論的に言うと、「民主主義のために役に立つから」ということで、そういう考え方で表現の自由を考えるということは、今の御質問でいうと、政治的な脈絡が有るか無いかということによって判定するようになるということは、これは抽象的にそうだったんじゃなくて、アメリカの例ですと1910年代の末期、第一次世界大戦のとき、反戦運動とか、戦争遂行に邪魔になる行為をめっちゃくちゃに、驚くほどめちゃくちゃに規律しているわけです。

それに対して、それは憲法上おかしいんという議論が出てくるのが1919年〜1920年の段階です。政治的な自由を取り締まるのはおかしい、政治的な自由を取り締まるということは民主主義に反するんじゃないかということで、表現の自由の第1ステップが切られたわけです。
50年代までは商業広告と同じレベルで、わいせつ文書は表現の自由と政治的基準じゃないされてきた段階で、今でもその理論というものは形を変えて残っているというふうに思います。

表現の自由というものは、社会的に価値があろうとなかろうと、私が言いたいこと、私が知りたいと思うことという「私の自由」を確保する。「私の存在にとって大事なことか大事じゃないか」ということを理屈として考える。それを保護すべき利益と考え直すような傾向というのは、アメリカについて言うと70年代からある。70年はどういう時代かというと、60年代に公民権運動、そして70年代にベトナム戦争という権利のための戦いがある。
「個人の自由を保障するということはどういうことなんだろうか?」ということの応用問題として、わいせつの問題を個人の自由ということの観点から眺めてみる見方というものがようやく顔を出したということだと思います。

すると、その性的な表現などの表現の自由の問題は、出版物の送り手と受け手の純粋に私的な事項、つまり、プライバシーを侵害されているのではないかという問題になるわけですね。
そういう問題からも眺めることはできるということで、民主主義的な問題で討論と討論で競い合って、それで結局において強い討論というものを取りあえず実験でやりましょうよといったような、そういう社会的に有用かどうかという議論も表現の自由のために非常に重要なことだと思います。

けれども、わいせつ文書の場合典型であるような、社会的に役に立つか役に立たないかということだけで表現の自由をつかまえてはいかんということ、これを「個人の自由原理」と言ってもよろしいでしょう。あるいは「基本的自由、自由原理」と言ってもいいでしょう。
そういうものとして眺め直さなければならないのだということが出てくるようになったのは、80年代以降、なかんずく90年代以降であると言えると思います。

で、その「自由原理」ですが、フランス人権宣言の時代に、「他人を害しないすべてをなすことができる」という、原点的な立場にまた舞い戻っていくという傾向を示しているわけです。僕の理解ではそうなんです。
つまり、17世紀の終わり、近代のはじまりと言ってもいいんですが、そこで出てきたフランス人権を1つの典型として、非常に純化した形で、あるいは非常に抽象的な原則を語るという形で、「人は他人を害するのではない限りは一切の自由がある」ということを原理的に語ったと。で、これは結局もうひとつパラフレーズして言えば、「人は、他人及び社会を傷つけることがない限りは好きなことができる」ということになるという命題は、近代の出発点にあったんですね。

しかし、これはまさに、あの時代に特有な格好で抽象的にあったし、そこから何がどのように応用問題で引き出されるかということは、ずっと宿題として残ってたと思うんです。
それが、先ほどお話ししたような、80年代以降からの表現の自由の考え直しということとの関係で言うと、フランス革命の人権宣言的な考え方が、人は他人を害する及び社会を害するのではない限りは自由であるということを、表現の自由の領域でどう考えるかということを課題として実は設定されていたんだということを、80年代になって初めて気が付くということになるだろうと思います。


弁護人:その立場に立つと、わいせつ文書が実際に社会に対して、いかなる実質的害悪を引き起こすかということを経験科学的に立証しなければいけないということになるわけですね?

証人:そういうことだと思います。だけどチャタレー判決で、いわゆる3要素等がそれとどのように絡むかということは、問われたことさえもない。
今まで3要素が金科玉条として、スタンダードとして支配してきているのだけれども、それは害悪論とどう関係するか?実質的害悪って起こりましたか? 単に迷惑というんじゃない、もっと社会として取り締まらなくちゃならない、社会としてその人に不自由を強いる実害って一体何なのか?ということを、最高裁判所は1度も問うたことがないというふうに思います。


弁護人:で、その実質的害悪を経験科学的に立証することに成功しているかどうか、そもそもそういうことが測定し得るのかについては、証人はどのようにお考えなんでしょうか?

証人:ある特定の書物があって、ある特定の被告人をして呼び出し、その人が行った行為、その特定の行為がけしからんかどうかという裁判になるわけだから、ものすごく個別 的なことですね。
そして、ある書物が読者一般に対して、あるいは特定の読者に対して、どのような影響を与えるかということもこれまた恐ろしく個人的なことですね。

メッセージを発信するほうの側も、メッセージを受け取る人の側も、個別の問題として起訴されたり、あるいは個別 の問題としてそこで裁判されたりするけれども、1冊の本が、あらゆる社会的脈絡なしに、この人に対してどんな害悪を与えるかということを証明することは恐ろしく難しい、ほとんど不可能なことであると。
ある1冊の本が世に出るというのは、前提としての文化、前提としての状況、それに対する人々の意識等々が複雑な中で、それらを全部捨象して判定したところで、この1冊が読んだ人の何%の何人に対してどのような犯罪的な行為を、性犯罪という実体的な害を与えるというふうになるかという、実体的な実害は、判定することができると考えること自身が、あらゆる社会科学、経験科学というのは、どういうものをどうにしたってできるはずがない。
それじゃ何もしないかというと、そうじゃなくて、ああでもないこうでもないという議論が今でも展開している。


弁護人:実質的害悪を個別的に立証するのをやめて、「環境悪化を引き起こす」というふうな議論を立てる人がいるんですが、それについては証人はどのようにお考えでしょうか?

証人:裁判をするについて、被告人が特定の書物を出版したこと、それ自身を問う構造、ある特定の被告人が、ある特定の書物を出版したということの良し悪しを問われているわけで、結局、「それを特定の行為に結び、特定の相手方についての効果 として判定することはできない」ということがだんだん明らかになってきて、これでどうもうまく説明できないなというので、「実は被告人のこの出版物を出版したという行為は、社会の文化環境、情報環境を悪化させる役割を果 たすんだから取り締まるんだ」というふうになるとすると、これは今まで「チャタレー夫人」の場合と全く違った概念で、全く違った犯罪の基準を、全く違った定義を下さなければならないというだけじゃなくて、「環境が悪化するって一体何だ?」と。

そこで言う「環境」って、多くの人たちは言葉で迷わされますから、環境という言葉で言うと「産業公害」「都市公害」と理解するような、そのような言語環境に置かれています。そして、国家が環境対策をするということになると、これは検証可能なことなんですね。
「何とかという物質が何%含まれている」ということ等々、それに対してどのような効果 があるかということを測定可能であり、測定可能でないことに進むわけにいかんという領域がはっきりしているわけですね。環境対策というものは、どのような利益があろうと、環境対策の環境のほうを前面 的に出していくということは許されると人々はそれでこそ理解されている。そのことに関して憲法上抵触する基本的人権というのがあるとすれば企業の自由、どんどんどんどん公害出したっていいんですよという企業の自由があるかどうかというだけの問題です。

で、僕たちは、環境という言葉で説明をするけれども、これは産業公害とか都市公害とかの測定可能な全経験科学的に認識し得る環境対策じゃなくて、言葉としての説明でしかない。
「環境が悪化する、ああ、そうだねそうだね」と圧倒的多くの人たちはそう理解する、けれども、憲法の原理から見て、圧倒的な人たちが理解をすればそれでいいんだったら憲法なんて要りません。環境権を悪化するから取り締まるんだという理論は、ある種の人々を説得できるかもしれないけれど、「他人を害する、あるいは社会を害する以外のことは自由だ」という命題では説明できないということになるだろうと思います。


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※尚、このレポートはメモ及び記憶を元に作成されており、あくまで公判のイメージを伝えるためのものですので、多少の記述の食い違いは御容赦ください。
※転載は自由です。
※制作は児ポ法改悪阻止青環法粉砕実行委員会が行なっています。 また、制作に当たり匿名の方の協力をいただきました。



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