第11回公判 最終弁論
弁論要旨 その1

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I 刑法175条の憲法適合性について


第1 はじめに

1 被告人は刑法175条に抵触していたして起訴されているが、そもそも刑法175条は、以下に述べるとおり、憲法21条及び同31条に違反し、違憲無効の法条である。仮に、刑法175条が法条自体は違憲でないとしても、本件に適用することは憲法21条に違反する為に適用が許されない。
   したがって、被告人を裁くべき法律は存在しないのであるから、被告人は当然に無罪である。

2 本裁判で問題になっているのは、大人に対して、コミックス「蜜室」を販売できるか、大人が読む事ができるかであって、青少年に対する悪影響は論点ではない。
   それを承知の上で後に触れるのは、検察官が刑法175条の保護法益に青少年の健全育成が含まれているという前提で、反対尋問で繰り返し質問したからにほからない。


第2 憲法21条との関係について


1 憲法21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由」を保障しており、出版の内容については特に限定を設けていない。性表現も、憲法21条の表現に含まれる。


2 表現の自由の優越的地位
 表現の自由を含む精神的自由権は、討論を行うための大前提であり、民主主義の根幹をなしているため、人権体系の中でも優越的地位を持っている。最高裁も「憲法21条の保障する表現の自由は、民主主義国家の政治的基盤をなし、国民の基本的人権の内でもとりわけ重要なものであり、法律によってもみだりに制限することができない」と明言している(昭和49年11月6日猿払判決)。
 したがって、その制約が合憲である為には、表現の自由に対する経済的自由権の制約よりもより厳格な審査基準で判断されなければならない(二重の基準論)。
 即ち、表現の自由は基本的に制約することが許されず、ある表現行為が世の中に受け入れられるか否かという点については、思想の自由市場における討論を経なくてはならない。


3 二重の基準論
   人権を制約する立法の合憲性判断の基準は、立法目的の正当性と手段の相当性であるが、立法目的が正当と言える為には、保護法益が現実に存在することと、立法を支える社会的事実が存在すること(立法事実論)が必要である。
 表現の自由に対する規制立法が合憲といえるためには、立法目的の正当性と重要性が存在することを前提に、立法目的を達成するためにより緩やかな手段が存在しないという厳格な審査を経なくてはならない。何故ならば、表現の自由が一度侵害されてしまうと、その制約の是非について議論すること自体が不可能になってしまうからである。

(1)保護法益論
   立法目的の正当性の判断基準の中で最も大事なものが、保護法益の存在である。精神的自由権を制限するには、制限によって直接救済され、制限を補って余りある国民多数の利益が現に存在することが必要だからである。

 ア 最高裁は、刑法175条の保護法益を、「善良な性的道義観念」或いは「最少限度の性道徳」とする(昭和32年3月13日チャタレー判決)。

 イ しかし、国が特定の価値判断や道徳観念を保護し強制することは法と道徳の分離という近代法の大原則に反するばかりか、憲法19条の思想良心の自由に反する。
   憲法19条は、個人の内面形成の自由を絶対的に保障したものであるが、国が特定に価値観を国民に強要することは個人の内面形成の自由を直接奪うものであるし、国が特定の価値判断や道徳思想に与することも、最終的に個人の内面の自由を侵害することになることは明らかであるから、国は須らく価値観や思想の問題には中立でなければならない(国家の思想的中立性の原則)。
  そればかりでなく、社会におけるインフラの整備が一段落した現代社会では、人々の価値観が多様化して、何が公共性なのか、公益なのかを、一律に判断することは困難であり、何が公益であるのかという点については、「他者の人権を侵害しないこと」を基準に市民間における自律的な議論により決定する他はなく、国家権力がある種の価値観を道徳的なものとして承認することは市民の価値基準に合致しない結論を導きかねないので避けなくてはならない。

 ウ また、道徳観念は、決して自然法則のように普遍的なものではなく、権力者あるいは多数者の価値観に過ぎないものである。そもそも、人々あるいは権力者がまゆをしかめ、あるいは、その反感、嫌悪感を買わないような表現については、多数決により侵害されることがないのであるから、そのような表現だけを保護する趣旨であれば、憲法が表現の自由を保障する必要はない。憲法は、多数決によっても侵害し得ない少数者のための自由を保障しているのである。奥平証人は、「表現の自由は、人々から悪評判であったり、それなら規制していいんじゃないの?というところにいて、『いや、これは規律することは間違っているんだ』という少数者の利益を保障するのが、憲法なんだ」(奥平泰博証人尋問調書38頁)と述べているが、半生を憲法の研究に捧げてきた人物の言葉は重みがある。

 オ 「性表現を見たくない」という人の権利は一定の限度で法的な保護に値するものであり、刑法175条の保護法益を「見たくない自由」として再構成することは、一つの立法論としては十分傾聴に値するものである。
  しかしながら、刑法175条は、頒布・販売を、販売相手や販売態様を問わずに一律に規制し、「売りたい人が買いたい人に対し販売する行為」についても禁止しているから、現行の刑法175条の条文を合憲のものとして維持しつつ、解釈論により憲法適合性を図ることは難しいといわざるを得ない。

 カ 結論として、「性的道義観念あるいは性道徳の維持」というのは、民主主義体制下における正当な立法目的とはいえない。

(2)立法事実論
 ア 立法事実論とは立法を必要とする社会的事実の存否に関する議論であり、立法目的が正当であるといえる為には立法事実が存在することが必須である。

 イ 刑法175条の立法事実について、最高裁は、「猥褻文書は人間の良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放・無制限に振る舞い、性道徳・性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。」(チャタレー判決)と述べる。
   しかしながら、そもそも、刑法175条は、わが国においてわいせつ文書の規制を必要とする立法事実が存在するが故に制定されたものではない。明治維新を迎えて西欧列強の仲間入りを目指していた当時の日本が、国という概念を知らない人々を国民化するという政策的な目標を達成するために、従前の因習よりも強力なルールの存在を知らしめ、あるいは、不平等条約改正という目的のために、「エキゾチックな性の楽園」というイメージを払拭すべく、導入された、純粋に政策的な規定であり、理論的な根拠というべきものは存在しない(参照宮台真司証人尋問調書第4頁)。
   それにもかかわらず、合憲という結論を強引に維持すべく、最もらしい体裁を整えるために、「猥褻文書は人間の良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放・無制限に振る舞い、性道徳・性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。」という科学的な根拠の何もない暴論を持ち出さざるを得なくなったのである。
   メディアが犯罪を誘発するかについては、宮台証人・斉藤環証人らが引用したクラッパーの限定効果説で否定されており(同11頁)、性的メディアが性犯罪を誘発するかについても、ジョンソン大統領の為の諮問委員会は、性的なメディアは接触を続けると性的な刺激が急速に薄れてきて性的なメディアと接触していない状況と変わらなくなる、と逆の方向の報告を上げている(同19頁)。
   宮台証人の社会学的調査によっても、1980年と1990年のマンガ雑誌の売り上げは、1661億円から2840億円にほぼ倍増し、漫画単行本の売り上げは、563億円から1645億円に3倍増している(これらに性表現がのることは珍しくない)。他方、犯罪白書に掲げられる強姦で検挙された少年数は、80年984名から90年445名に半減している。強制猥褻での検挙数も720名から538名に4分の3以下に減少した。宮台証人が主管したNHK「日本の性」調査では、99年の16歳?19歳のアダルトビデオ試聴経験者数は、72%を越えていた。98年の14歳?19歳の少年男子は約464万人だが、この内7割がアダルトビデオ試聴経験者とすると、約334万人に及ぶが、98年の強姦・強制猥褻検挙者数は合計918人に過ぎない。つまり、アダルトビデオ試聴経験者の中で、強姦・強制猥褻検挙者は3500分の1しかないのである(同22ないし24頁)。
   刑法175条が合憲であるというならば、政府はその危険性について実証的なデータに基づき立証すべきである。政府側は何らその点について立証していないが、最高裁判例が指摘する様な危険性が存在することは相当程度疑わしく、社会に広く受けられてはいるが、科学的には何らの根拠もない俗信の域を出ないものであることはほぼ明らかになりつつある。
   チャタレー判決が下されてから半世紀が過ぎようとしているが、この間、メディアの影響論に関する研究など人間の行動を規定する諸々の要素に関する研究が進んでいる。裁判所は、半世紀も前のつじつま合わせに呪縛されることをいい加減にやめるときが来ているのではなかろうか。

 ウ なお、「わいせつ文書が性犯罪を誘発するという観念が世間に広く受領されていること」をもって、科学的な検証を不要とする態度は間違いである。性メディアが人間の行動にいかなる影響を及ぼすのかという問題は、科学的な判断の問題であり、司法機関である裁判所が独善的に判断すべきものではない。
権力が科学の中身を規定し、裁判所がそのような判断を下すことは、旧ソビエト連邦がルイセンコの理論を賛美し、ガリレオの唱えた地動説を間違いであると当時の権力が下したことと並べられる同レベルの愚行である。


4 立法目的を達成するために必要な最小限度の規制といえるか?

(1)前述したとおり、そもそも刑法175条の立法目的自体が正当なものとは言えないから、憲法21条に違反して無効であることは免れないが、仮に、「見たくない自由」を保護法益として解釈することにより、その合憲性を維持することは可能であろうか。

(2)
 ア 前述のとおり、刑法175条は、「猥褻文書・猥褻図画・猥褻物の頒布・販売・公然陳列」を一律に処罰している。
しかしながら、見たくない人が不意打ちを受けないで済むようなゾーニングを行い、あるいは、性的な出版物について、内容を見る前にそれが性的な出版物であることを明示するラベリングを行うことにより、「見たくない自由」を保護することは十分に可能であるから、立法目的達成のためにより緩やかな手段が存在し、刑法175条による規制は必要最小限度の規制とは言えない。
また、実際にも各自治体レベルにおいて青少年健全育成性条例による有害図書指定制度が既に整備されている状態にあり、ゾーニングは現に実現している現状にある(園田寿証言参照)。
   したがって、刑法175条については、保護法益を「見たくない自由」と解釈したとしても合憲性を維持できず、やはり違憲であるという他はない。

 イ わいせつ問題に関するリーディングケースであるチャタレー判決は「しかし著作自体が刑法一七五条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。問題の著作は現存しており、裁判所はただ法の解釈、適用をすればよいのである。」と判示している。
現在の実務もこの判決の立場を踏襲し、わいせつ性に関する判断はあくまでも法的解釈であるという運用がなされているが、「わいせつ物」という「絶対的な実体」が存在するという前提としているそれ自体が非科学的であり間違っているといわなくてはならない。例えば、夫婦が寝室の中において行う性的な振る舞いは、それがどんなに性欲を惹起しようが、あるいは性欲に基づくものであろうが、「わいせつ」ではなく、それがインターネットで実況中継され公衆に対し発信された時点において、「わいせつ」となる。「わいせつ」とみなされるかどうかは極めて文脈依存的であり、「性的であってはならない次官や空間に、一定のルールを外れた性的な振る舞い性的な物品が存在する場合」において、「わいせつ」と判断されるのが、習俗としてのわいせつの基本線である。習俗としての「わいせつ」を超えて、性道徳の維持などのために、国家が規制を設けることが許されないのは、前述したとおりである。

 ウ なお、ゾーニングやラベリングを行ったとしても、性表現物を見たくない人がこれに接触する可能性がなくなるとは言えないことは認める。
   しかしながら、そもそも、性的欲求を充足することは、衣食住の権利と同じほど人間にとって大切な本源的欲求の一つである。男女の性的な結合の権利は、学歴や社会的地位などにかかわらず、広く国民一般が享受でき、金もかからない人間性回復の手段である。性表現の享受も、夫婦やステディーな男女の性生活に刺激を与え、単身者にとっての代理満足の手段(宮台証言)となるものより多様な喜びを人間に与えるものであり、性表現を見たい人が性表現を享受する権利は十分法的保護に値するものであり、その重要性は「見たくない自由」にも匹敵する(宮台真司証人尋問調書第24頁)。
このように、「見たくない自由」が「見たい自由」に絶対的に優位するわけでは無いから、見たくない人が意図的あるいはうかつにも「ゾーニング」あるいは「ラベリング」を見落とした結果として、「見たくない自由」を侵害されたとしても、これはいわば自業自得なのであるから、見たくない人が性表現に接触する可能性を避けられないことをもって刑法175条のような包括的な規制を正当化することは出来ない。


 5 知る権利との関係

 刑法175条は憲法21条により保障された国民の知る権利を侵害するが故に違憲無効である。
 「知る権利」は国及び地方自治体レベルにおける情報公開制度の整備に伴い着目されているが、その本質は、国家権力の情報は本来は主権者である市民のものであり、市民が国家権力の行使の妥当性を検証するための手段として、情報の公開と知る権利の保障が認められている。
 しかしながら、刑法175条は、そもそも「わいせつ」である情報が不特定若しくは多数人に流通すること自体を処罰するものであり、結果、「わいせつ」か否かは「社会通念」にしたがって判断されるものであるにもかかわらず、一度刑法175条による摘発が行われるとその摘発の正当性、すなわち、「蜜室」が「社会通念」に照らし真に「わいせつ」なものであるか否かという点を巡る市民間のコミュニケーションは不可能になる。
 実際にも、弁護人あるいは被告人が大勢に対し、「蜜室」のコンテンツを公衆に見せてその意見を求め、あるいは、市民がホームページに「蜜室」のコンテンツを掲載して議論をすることにより「社会通念」を探求することが事実上不可能になっている。
刑法175条が知る権利を侵害しないと判断することは、チャタレー最高裁判例ではないが、警察あるいは裁判所が社会に対する「臨床医」としての役割を果たす必要があると宣言するに等しいことを裁判所にご理解いただきたい。


 6 明確性の原則との関係

(1)法文が漠然不明確な法令は表現行為に対して萎縮的効果を及ぼすため無効となる(明確性の原則)。また、刑法175条は刑罰法規であるから、憲法31条の要請する罪刑法定主義との関係からも明確でなくてはならないが、最高裁判所はいわゆる徳島市公安条例事件判決において、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめる基準が読み取れること」が必要であると判示しており、「わいせつ」の定義について「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」といういわゆるチャタレー3要件を挙げた上で十分に明確であるとしている。
しかしながら、刑法175条の「わいせつ」という文言は、漠然不明確な概念であり、最高裁判所の判断は市民の常識に反する。刑法175条は憲法21条の要請する明確性の原則及び憲法31条の要求する罪刑法定主義に違反し無効である。

(2)最高裁判所は、いわゆる「四畳半襖の下張事件」判決において、文書が「わいせつ」であると言えるためには、「当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、更には芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として読者の好色的興味に訴えるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の社会通念に照らして、それが「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」といえるか否かを決するべきであるとしているが(最高裁昭和54年(あ)第998号同55年11月28日第2小法廷判決・刑集34巻6号433頁)、最高裁判所が自ら設定した定義についてこのように詳細な認定基準を打ち出さなくてはならないこと自体、裁判所自身がわいせつの概念が曖昧模糊としたものであることを自ら認めているからに他ならない。
   また、この判決の論理を分析すると興味深い点が明らかとなる。「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」という要件を素直に読めば、 〔1〕性欲の刺激、〔2〕性的羞恥心の侵害、〔3〕性的動議観念に違反という3つの要件に分解されるが、「四畳半襖の下張事件」判決はわいせつ性認定のために考慮すべきであると判示している諸々の要素が〔1〕から〔3〕までのどの要件に対応するかを明らかにせずに、端的に「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」かどうかを判断すべきと判示している。このことは、3要件は実は3つの要件としては機能せず、「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」という単一の要件に過ぎないことを示唆するものであり、いわゆるチャタレーの三要件がわいせつの定義を何ら明らかにしたものではなく、それ自体が解釈により分析を必要とする曖昧模糊な同義反復に過ぎないことを露呈している。
   さらにいえば、この判決の定立した基準自体についても、一般人がこのような要素を念頭において出版物について判断できるのかはなはだ疑問である上、この基準は一見すると諸々の要素を総合的に考慮した上で、「主として読者の好色的興味に訴えるものと認められるか否か」を検討すべきかのように見えるが、「主として読者の好色的興味に訴えるものと認められるか否か」の後には「など」がついており、「主として読者の好色的興味に訴えるものと認められるか否か」というのが結論なのか、それとも記述されている諸々の要素と並列的に扱われるべき一要素に過ぎないのかがはっきりしないが、それ以外に考慮されるべき未知の要素が存在するのであれば、結局のところ、「わいせつ」の中身は明らかにされていないといわざるを得ない。
   結局のところ、何が「わいせつ」なのかは曖昧模糊なままなのである。

(3)長嶋博文証人は、これまで27年間もいわゆるエロ業界にいた人物であるが、「ただ、具体的に何がどうというのは分からないんで、どの部分がいけないのか悪いのかというのは、はっきりとした基準というのはいつの時代も違うので、行政から指導を受けた場合とか、いわゆる東京都の指定を受けた場合について、その本を見て、感覚的なことも随分あるので、見てですね、判断していく」(長嶋博文証人尋問調書25頁ないし26頁)、「いや、写真集とか写真的なものは過去に摘発を受けた出版物がずいぶんありますから、それは見てわかるんですが、コミックスについては今回初めてなので、どの部分がどうというのは分からないですね。映像の場合ですとか写真の場合というのは、過去に摘発を受けたのがたくさんあるので」(同28頁)と証言しており、「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」から何が許されない違法な性表現なのかということをイメージすることは一般市民にとって困難であり、いわゆるエロ出版業界に長年携わってきたものにとっても容易ではないことを明らかにしている。
   また、「蜜室」をわいせつ物であると断じた真庭警部補(わいせつ問題に関する識者といえるかは同人の証言内容に鑑みればはなはだ疑問ではあるが)に対し、園田寿証人は「わいせつではない」(園田寿証人尋問調書3頁)と明確に断言しており、専門家の間でも意見が分かれる結論になっている。
 このような事実に照らしても、「わいせつ」の概念が明確であるという結論は常識に反する。

(4)よって、刑法175条は憲法21条及び憲法31条に違反し、違憲無効である。



第4 運用違憲ないし適用違憲

   仮に刑法175条の法条自体が違憲であると認められないとしても、刑法175条の運用の現状及び本件に刑法175条を適用することは憲法21条に違反する。


 1 不適格な認定者
   今回、「蜜室」を「わいせつ」と判断した警視庁の担当者は真庭警部補であるが、同人は「蜜室」というマンガについてわいせつ性を判断する立場にありながら、これまで絵や写真などの芸術について専門的な教育を受けたことがなく(真庭証人尋問調書1頁)、芸術などについても特に判断能力がなく、「悪徳の栄え」最高裁判決すら知らず(同8頁)、成年コミックを読んだこともない人物であり(同13頁)、例え、同僚や上司と合議して行ったとしても、これまでに摘発した前例のないマンガについて「わいせつ」認定する人物としては適格者ではない。


2 不明確な認定プロセス
   仮に、真庭警部補が適任者であったとしても、表現の自由の重大性に鑑みればある程度の人数が有識者などの意見を踏まえた上で合議し、その判断を下すという慎重さが当然に要求される。
今回、真庭証人は風紀一係全員で協議した旨を証言しているが(同11頁ないし12頁)、実際に協議が行われたにせよ、警察という階級先任順序が厳しい組織内においては、裁判所における裁判官の合議のように対等な議論の自由が必ずしも保障されているとは限らないし、実際に、真庭は上司である豊島警部の決裁を求めている(同12頁)。また、真庭証人が証言するとおり、弁護士と刑法学者という有識者と直接連絡をとっているのが認定者である真庭ではなく、上司である豊島警部だけであり、結論を同警部から伝え聞いているだけという状況からも対等な議論の大前提である情報の共有化がなされていないことは明らかであり(同10頁ないし11頁)、警視庁風紀一係係員全員が話し合ったということをもって一部の者(この場合は上位者)の恣意的な判断を防ぐ手続き的な担保が十分であるとは言えない。
   なお、有識者の意見であるが、具体的にどのような照会がなされたのか、マンガが「わいせつ」でありえるかという趣旨の一般論的な意見か、「蜜室」を実際に見た上での意見なのかもはっきりしないが、諮問結果について書面も作成されていない上(同19頁)、人選の責任者も不明であり(同20頁)、照会相手の名前も真庭警部補には知らされず、照会した結論についてしか情報が共有化されていないというのであるから、おそらくは、正式な相談ではなく、せいぜい、個人的な知人に対する一般論的な相談程度の信頼性の低いものであったことが予想され、専門家の意見があることをもって、恣意的な認定を防止するに十分な担保があるとも言えない。


3 検分の態様
   真庭警部補は、風紀一係十数人で(同12頁)、ビューティーヘアーを作者とする「蜜室」他3冊以外に15冊ほどのマンガ本を回覧する方法で検分しているが(同14頁)、その所要時間は長くても3?4時間程度であり(同6頁及び同13頁)、これだけの人数で約20冊ものマンガを検分した場合、一冊に割くことが出来るあたりの時間は、せいぜい2、3分程度であり、流し読み以上の検分は出来ず、慎重な判断をしているとはとても言えないにもかかわらず、意外とスムーズに結論が導かれていることは、警視庁内部において極めて形式的な公開されていない内部基準が存在することを示唆している。
   少なくとも、「四畳半襖の下張事件」判決のような詳細な基準を適用し判断していないことは明らかであり、独自の恣意的な基準により判断を行っていることは明らかである。


 4 事実上の発禁作用
捜索・差押は、証拠保全のために必要な限度で行うことが許されるに過ぎない。
そして、わいせつ図画頒布罪を立証するためには、蜜室のサンプル1冊を押収し、後は帳簿や納品書などを差し押さえれば十分な筈であるが、実際には、同一著者の出版物の在庫が根こそぎ押収されており、裁判所による判断が下される前に、事実上出版物の流通は不可能になってしまうが、このような捜索・押収手続きは事実上の行政権による発禁処分であり、憲法21条の保障する表現の自由に違反し、違憲無効である(奥平康弘証人尋問調書第41ないし43頁)。

(4)結論
   「蜜室」をわいせつであると認定したプロセスから始まり、「蜜室」の捜索押収に至るまでの運用は、表現の自由の重大性を踏まえず、警視庁の一担当官による恣意的な判断を許すにとどまらず、事実上行政権による発禁処分の効果を持つものである。かかる運用は、憲法21条及び憲法31条の要請する適正手続きの保障に反し、違憲無効であり、刑法175条を本件に適用することは許されない。



第5 まとめ

刑法175条は憲法21条1項・同31条に違反し、違憲無効であり、仮に百歩譲って合憲であったとしても、本件におけるその運用状態は憲法21条及び同31条に反する違憲な運用である。
したがって、そもそも被告人を裁くべき法規は存在せず、また、仮に存在したとしても本件に適用することは憲法に違反し許されないのであるから、被告人は当然に無罪である。

 



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※尚、このレポートはメモ及び記憶を元に作成されており、あくまで公判のイメージを伝えるためのものですので、多少の記述の食い違いは御容赦ください。
※転載は自由です。
※制作は児ポ法改悪阻止青環法粉砕実行委員会が行なっています。 また、制作に当たり匿名の方の協力をいただきました。



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