第11回公判 最終弁論
弁論要旨 その2

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.「蜜室」は「わいせつ図画」に該当するか?

<刑法175条の解釈論について>

第1 検察官の主張に対する反論


 1 わいせつ性の判断基準について

(1) 
 ア  検察官は論告において、蜜室が「わいせつ」と認められる根拠として、「性器、性戯、性交の描写 部分が全体のほぼ3分の2を占めて」いること、「各編において、男女が次々に体位を変えて性交を繰り返してゆく様を具体的かつ詳細に描写している」こと、「極めて大胆な写 実的手法を用い、微に入り細をうがって克明に描写されている」ことなどの事情をあげた上で、「本件「蜜室」は、全体を通じ、性行為を興味本位 に取り上げ、しかも露骨に描写しており、専ら読者の好色的興味に訴えるものと認められる」とし、「蜜室」が「徒に性欲を刺激興奮させ、かつ、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるもので、普通人の正常な差恥心を害するものであり、善良な性道徳観念に反する」わいせつな図画を掲載した図書に該当すると結論づけている。
 イ  最高裁判所は、いわゆる「四畳半襖の下張事件」判決において、文書が「わいせつ」であると言えるためには、「当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、更には芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として読者の好色的興味に訴えるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の社会通念に照らして、それが「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」といえるか否かを決するべきであるとしており(最高裁昭和54年(あ)第998号同55年11月28日第2小法廷判決・刑集34巻6号433頁)、検察官の論告はその基準を忠実になぞったものであると推察される。

(2) しかしながら、検察官のかかる論法は、判例の文字通り字面だけを追うものに過ぎず、裁判所の判例の奥底にある問題意識を無視しているものであり、間違いである。

 ア  わが国の最高裁は、「わいせつ」の意義について、その内容が「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」をいうとしている(最高裁昭和28年(あ)第1713号同32年3月13日大法廷判決・刑集11巻3号997頁)。
これを便宜上、「わいせつの3要件」と呼び、このわいせつの3要件に該当するか否かは社会通念にしたがって判断されることになるが、社会通念の内容は社会によって必ずしも同一ではなく、また、同一の社会においても時の経過により変遷することがあり、一般文化を背景として変遷することを免れ得ないものである。
    社会通念の変化が認められる具体例として古いものでは、「チャタレー夫人の恋人」が別段摘発されることなく復刻されていることが挙げられるし、新しい例では、10年前であれば即摘発の対象となったであろう「ヘアー」すなわち「陰毛」の露出している写真集が店頭で堂々と発売されていることが挙げられる。

 イ  いわゆるチャタレー判決において、最高裁判所は、「性欲を興奮・刺激し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情を抱かしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している」がゆえに、わいせつな図画や文書の取り締まりが必要であると述べ、その取締りの根拠規定である刑法175条は性的秩序を維持し、最小限度の性道徳の維持を目的とするが故に公共の福祉に合致し、故に合憲であると述べている。その後の裁判例もこれに追随している。
このような最高裁判所の論理により刑法175条による規制を正当化し、その合憲性が認められるものであるとすれば、それは、同条による規制と摘発が、その時代の市民をして理性による制限を不可能にするほど強く性欲を刺激し、性に関する良心を麻痺させ、秩序・性道徳の無視を誘発するに足りるほどの過激な表現を規制の対象とした場合のみである。すなわち、刑法175条は性表現一般、あるいは、エロ本一般を取り締まるものではなく、同時代に流通している性表現の中でも、最高裁判所が指摘したような弊害をもたらす危険性を有する極めて過激な性表現のみを取り締まりの対象とする規定としてのみかろうじてその合憲性を維持することが出来るのである。

 ウ  チャタレー判決以降、裁判所は最高裁判所、下級審裁判所を問わず、刑法175条の適用範囲を限定する方向で判決を出してきた。いわゆる部分的考察論から全体的考察論への変遷やわいせつの3要件の認定についてより細かく、より具体的な基準を打ち出してきたことはその現れである。
裁判所がわいせつの認定に関し、より具体的な基準を打ち出してきた背景には、出版物の「わいせつ性」が争われる都度、社会自体が性表現に対しより慣用となっている方向に変化していることに思いを新たにさせられた裁判所が、社会通念の変化を受け止め、刑法175条の適用範囲を出来る限り明確にして、その適用される範囲に合理的な枠を嵌め、表現に対する萎縮効果を必要最小限のものにしようという問題意識を持ったことがある。
    結局、先に紹介した「四畳半襖の下張事件」判決は、いわゆる「エロ本」と呼ばれるメディアに対する社会の評価が低く、科学的、芸術的、思想的な価値を併せて有する作品であるならばまだしも、読んだ読者に性的刺激を与えることを目的の一つとするような出版物、当時の言葉で言えば「春本」は規制されてもやむを得ないという時代背景、摘発が行われた昭和47年当時の社会通念に照らし、刑法175条の適用範囲を限定するための問題意識を踏まえた努力の一つの到達点にすぎないものである。以後、昭和51年に「愛のコリーダ」が摘発されて以来、たまたま、裁判所において出版物のわいせつ性が全面的に争われたことがなかったがために、昭和47年以降の社会通念を踏まえたわいせつ性の判断基準を踏まえた判決が存在しないだけであり、検察官のように、その基準が当然現在においても妥当するものと考えることは間違いであるというほかは無い。

 エ  検察官の主張する「四畳半襖の下張事件」は文書のわいせつ性に関する判決であるが、現代における性メディアの大部分を占める絵や写真、映像について同様の判断基準を適用することが出来ないのは自明である。また、ここ20年近く、「文書」が摘発の対象から外れていることからも同判決は現在において通用していないことは明らかである。
   また、摘発担当者も同判決を参考としていないことは、検察官自身も証人として喚問することを請求した警視庁保安係の真庭警部補の「性器が、性交場面等が丸見え、悪い言葉で言えば、丸見えになっているものについては摘発しております。」(真庭証人尋問調書第16頁)、「性器性交場面などが詳細にかつリアリティに描いてありまして、ケシが入っているものの性器の部分がはっきり見える状態であるためわいせつであると判断いたしました。」(同18頁)、「(「悪徳の栄え」判決について)知らない」(同8頁)、「(絵や写真などの芸術について)専門的な教育は受けていません。」(同1頁)、「芸術などについて、特に判断能力はない」(同2頁)、「(問題となる箇所の割合について検討したことは)ない」(同8頁)、「絵だけを見る場合もある」という証言から明らかである。
    なお、真庭警部補の証人を引用したのは、あくまでも現在の実務上のわいせつ性認定基準それ自体が「四畳半襖の下張事件」判決の示した基準とかけ離れ、「(実写あるいは実写なみにリアルな表現がなされていることを前提に)性器・性交場面等に修正が無いものは摘発する」という基準で運営されていることを明らかにするためであり、警視庁の採用している基準に弁護人が必ずしも賛成しているわけではないことを付言しておく。

 オ  結局、「蜜室」がわいせつか否かは、過去の判例の基準によるのではなく、21世紀の社会状況を踏まえたわいせつ性判断の基準によるものでなくてはならないが、いかなる基準が妥当であるのか、また、検察官が「蜜室」が「わいせつ」の根拠として列挙している根拠が的外れであることについては後に検討する。


2 社会通念の理解について

(1) 最高裁のわいせつ概念の定義である「徒に性欲を刺激興奮させ、かつ、普通人の正常な差恥心を害するものであり、善良な性道徳観念に反するもの」に該当するか否かは社会通念にしたがって判断されるものであるが、この点について検察官は、「不検挙、不起訴がそのまま取締当局においてわいせつ性がないと判定したことになるものでないことは当然のことであり、ましてや、これらの成人コミック雑誌類が巷に流布されている状況ないし事実とわいせつ性の判断の基準となる社会通念が一致するものでないことは、これまた至極当然のことであ」ると主張し、現代における性的表現物の出版・流通状況とわいせつ性判断の基準となる社会通念が異なるものであると述べている。

(2) 
 ア  そもそも検察官は弁護人の主張する社会通念はわいせつ性判断の基準となる社会通念と異なると主張しつつも、検察官がわいせつ性判断の基準となると考えている社会通念について全く主張してもいなければ、立証は勿論、裁判所が社会通念の判断をするために必要な資料を法廷に提出してすらいないため、検察官の主張する社会通念の内容ははっきりしないが、おそらくは極めて観念的なものであろうと推測される。
   なるほど、最高裁判所は、チャタレー夫人判決において、社会通念とは「個々人の意識の集合又はその平均値ではなく、これを超えた集団意識であ」り、規範的な概念であると判示しているが、このことから裁判所が社会通念の内容について判断する際に社会状況などを考慮することが否定されるものではない。
 イ  現代においては多くの性表現物が流通しており、その中には読者に性的な刺激を与えることを売り物としているものも数多く存在する。その結果、これらの性表現物に多くの国民が接触しているという社会的な状況が存在するに至り、実在の人物の性器性交場面を撮影し、かつ性器性交場面に修正を施されていないものを除いては取締りの対象ともされず放任されているという状況が存在する。このような状況は、その時代の一般人の意識において肯定され受け入れられるに至っている性表現の程度を反映するものであり、その種の性表現の程度が一般に性秩序や性風俗に対する脅威とは感ぜられなくなったことを推測させるものと考えられる。このような性表現の流通がもたらした一般人の意識の変化は、当然、一般人の間に存在する良識である社会通念に影響を及ぼさざるを得ないのであり、一般人の「馴れ」や「受容」、捜査機関による放任の程度は社会通念を裁判所が認定する場合における重要な資料となるのである(同旨 東京地裁昭和54年10月19日判決「愛のコリーダ事件第一審判決」判例時報945号15頁以下 東京高裁昭和57年6月8日判決「愛のコリーダ事件控訴審判決」判例タイムズ473号64頁以下)。
 ウ  「わいせつ」と「非わいせつ」なものを区別する際の「物差し」としての機能を有するのが「社会通念」である以上、表現に対する萎縮効果を生まないよう社会通念の判断基準を明確化することが最低限度必要であるから、その判断に際しても、表現者に対する不意打ちとはならないよう、表現者が客観的に認識しうる事情を基礎としなくてはならない。表現者、出版者は、他の出版状況から判断し、「どこまでがOKなのか」を判断する以上、「蜜室」が制作、販売された時代において、巷間で公然といかなる内容の性を題材とした絵や写真を掲載した書籍、あるいは、コミック本が陳列販売されていたかを社会通念判断の際の重要な資料とすることは極めて妥当であり、また、こう解することはわいせつ判断の基準の具体化に務めてきた裁判所の姿勢とも合致するものである。
 エ したがって、社会通念論に関する検察官の批判も失当である。


 3 保護法益論について

(1)検察官は、「青少年保護」、「青少年の健全育成」もわいせつ罪の保護法益であるかのような主張を縷々展開されているが、これはわいせつ罪の保護法益と各都道府県において制定されているいわゆる青少年健全育成条例あるいは青少年保護条例の保護法益を混同するものであり、間違いである。

(2)
 ア 青少年の保護を禁止に成年者に対し性的な表現物の頒布行為を全面的に禁止することは、表現の自由に対する過剰な規制であり、憲法21条に明確に違反する。
この点について、最高裁平成元年9月19日第3小法廷判決(最高裁判所刑事判例集43巻8号785頁)において、伊藤正己裁判官は「すでにみたように本件条例による有害図書の規制は、表現の自由、知る自由を制限するものであるが、これが基本的に是認されるのは青少年の保護のための規制であるという特殊性に基づくといえる。・・・(中略)・・・そして、たとえ青少年の知る自由を制限することを目的とするものであっても、その規制の実質的な効果が成人の知る自由を全く封殺するような場合には、同じような判断を受けざるをえないであろう。
   しかしながら、・・・(中略)・・・成人にはこの規制を受ける図書等を入手する方法が認められている場合には、その限度での成人の知る自由の制約もやむをえないものと考えられる。本件条例は・・・(中略)・・・他の方法でこれらの図書に接する機会が全く閉ざされているとの立証はないし、成人に対しては、特定の態様による販売が事実上抑止されるにとどまるものであるから、・・・中略・・・本件条例を違憲とするのは相当ではない。」と明確に述べ、青少年保護を立法目的として成人に対する性的な表現物の販売を全面的に禁止することが憲法上も許されないことを明確に述べている。
 イ これに対し、検察官は、例えゾーニングなどの措置が取られていたとしても、「一度18歳以上の読者に販売された後は社会に流通し、これが18歳未満の青少年の手元に渡らないという保障は全くな」いことを理由に、青少年保護のためには性的な刺激の強い表現物を流通させないことが必要であるという主張を展開されている。
しかしながら、その論理に従えば、一応の人格的発達を終えている成人の読むべき読物等を人格形成の途上にある青少年のレベルに併せて引き下げることになり、かつて米国最高裁判所裁判官であったダグラス裁判官の言葉を借りれば、「あるゆる文学を害のない子供の育児室用のレベルに落とそうとする」ものであり、成人の表現の自由と知る権利の重要性を一顧だにしない危険極まりない理論であるといわざるを得ない。
また、検察官の論理に従えば、例えばアルコールやタバコなど成年者の嗜好品として認められているが、心身ともに未成熟なことを未成年者の使用が禁止されているものについても、アルコールやタバコを購入した成人から未成年者にわたる危険性を理由に全面的に禁止しなくてはならなくなるが、これが非常識な結論であることはいうまでもない。

さらに言えば、判断力の発達過程の青少年にとって、性表現を「有害」なものと指定し、自らの自律的な判断により性表現へのアクセスを否定している趣旨は、男女の多様な愛情なあり方を学ばせ、男女関係をセックスに極限する様な誤解を与えない点にあると考えられるが、青少年の性的な発達の程度には個人差が大きく、したがって、どの年齢のどんな青少年に、どの程度の性表現を与えるかを最終的に決めるのは、その青少年の保護者や教師など回りにいる大人であり、国家が決めることではないから、大人を経由して性的な表現物が青少年に流通すること自体が悪であるかのように主張する検察官の考え方は、間違っている。

   結局のところ、検察官は、青少年の基準で成人の娯楽が規制される社会を望んでいるとしか思えないが、成人になることの喜びの中には、酒を飲んだり、タバコを吸ったり、エロ本を読んだりと、ある程度リスクのある行為について自己の判断と責任で行えるという点にあるのではなかろうか。


第2 「蜜室」はわいせつか?


 1 はじめに

(1) 弁護人は、「蜜室」が「性」をテーマとして扱い、これを読んだ読者が性的な刺激を受ける作品であること、すなわち、「蜜室」がいわゆるエロ本の一形態であることを否定するものではない。

(2) いわゆるチャタレー判決において、最高裁判所は、「性欲を興奮・刺激し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情を抱かしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している」がゆえに、わいせつな図画や文書の取り締まりが必要であると述べ、その取締りの根拠規定である刑法175条は性的秩序を維持し、最小限度の性道徳の維持を目的とするが故に公共の福祉に合致し、故に合憲であると述べている。その後の裁判例もこれに追随しているようである。
このような最高裁判所の論理により刑法175条による規制を正当化し、その合憲性が認められるものであるとすれば、それは、同条による規制と摘発が、その時代の市民をして理性による制限を不可能にするほど強く性欲を刺激し、性に関する良心を麻痺させ、秩序・性道徳の無視を誘発するに足りるほどの過激な表現を規制の対象とした場合のみである。すなわち、刑法175条は表現一般、あるいは、エロ本一般を取り締まるものではなく、同時代に流通している性表現の中でも、最高裁判所が指摘したような弊害をもたらす危険性を有する極めて過激な性表現のみを取り締まりの対象とする規定としてのみかろうじてその合憲性を維持することが出来るのである。

(3)  では、近年における出版状況はどうなって いるのか。

 ア  園田証人は、大阪府青少年健全育成審議会の会長であり、いわゆる有害図書指定実務の担当者として、数多くの性表現物を検討してきた経歴の持ち主であるが(園田寿証人尋問調書第1頁ないし2頁)、「日本で禁止されるような映像が外国では合法であるということがあるわけで、そういう映像が日本で難なく、普通に見ることができる、こういう状況が今あるわけなんです。」(同4頁)、「その理由は、実は今、ご承知のように、ちまたにはヘアヌードと呼ばれるような写真集があふれておりまして、事実上、性器部分がほぼ写っているような、そういうビデオとか写真ですね、写真集のたぐい、そういうものが合法的に出回っているわけなんです。」(同7頁)、「(有害指定を受けているビデオの局部について)いわゆるモザイク処理と申しますか、そういうモザイクがかかっているビデオはあります。ただし、最近の傾向としましては、ビデオのモザイクの大きさが、つまりモザイクというのは四角いあれがあるんですけれども、四角の大きさが段々小さくなっているような気はします。ですが、比較的形がはっきりわかるような、そういう風なモザイクですね。余りモザイクの用をしていないようなモザイクといいますか、そういうものが多いような、多くなっているような気はしますけれども。」(同12ないし13頁)、「写真もそうですね。一応はモザイクがかかっておりますけれども、かかっていないのと同じような、そういうモザイクですね。」(同13頁)、「漫画については、モザイクというか、モザイクを描くわけですけれども、その描かれているものもあれば、そのまま描写されているような漫画のたぐいも有害図書の中にはございます。」(同13頁)、「インターネットを度外視しても、普通の書店に行きましても、堂々と週刊誌にヘアヌードの写真が載っていますし。」(同第28頁)などと証言している。

 イ  また、性的出版物を出版している自主規制団体である出版倫理懇話会の会長(当時)であった、長嶋証人は、アルバイトも含めれば、業界において27年ものキャリアの持ち主であるが(長嶋証人証人尋問調書第18頁)、「(実写及び漫画の性表現について)事実上、もう解禁ですよね、今、日本の場合。インターネットとか。」(同19頁)、「インターネットとかで、ほとんどもういわゆる無修正のままでいくらでも見れる状態」(同20頁)、「インターネットの普及と。あと、ヘアはほとんど、ここ7、8年前からヘアも解禁状態になっていることと、あと、インターネットの普及じゃないですかね。インターネット上では、もう解禁状態ですから。多分、そういうものが影響していると思うんです。それと、あと、浮世絵等なんかも確かに、7、8年くらい前から、そのまま何も修正なく出ている状態ですから、恐らくそういう流れから、どんどんそういう方向に、開放的に行っているんじゃないかなとは思います」(同20頁)と証言している。
 ウ  コミック、女性、セクシュアリティという分野を中心に評論活動を行い、多くのポルノグラフィを見ている藤本由香里証人は、「(「性器描写などが、かなり我々の目から見ると詳細に書いてありますけれども、一般的にはあのような書物が出回っているんですか?」という問いに対し)「はい、そのように思います。それほど突出したものだというふうには思いません。実際に、多分ぼかしが入ってないものも、これだったというふうにはにわかに指定できませんけれども、あると思います。」(藤本由香里証人尋問調書第24頁)と証言している。
 エ  これらの証言及び弁護人らが裁判所に提出した証拠物によれば、近年、陰毛を隠さずに掲載したいわゆるヘア・ヌードと称される映像が写真集や週刊誌に掲載されるようになり、また、インターネットの発達により性表現について格別の規制を設けていない国の画像に簡単に自宅からアクセスできるようになっている状態であると認められ、さらに、江戸時代の版画家による枕絵類の複製に限らず、現代人の作にかかる文芸、絵画でも、性器のみならず性関係すらも写実的に描写したものが、一般人が容易に入手し得る書籍や新聞雑誌等にしばしば掲載されていることが認められる。

(4) (3)で検討したような出版状況等の変化により、わいせつの概念が指し示す事実はどのように変貌しているのか。
    この点につき、園田寿証人は、「わいせつの概念自体については、変わりはないんだけれども、わいせつという概念が指し示す事実の範囲が時代によって変わっていく、そういうことは十分あるだろう」(園田寿証人尋問調書第4頁)と述べ、「例えば警察による取締りが長く行われないとか、あるいは、特に私は、この90年代からのインターネットの爆発的な大流行というものが国民のわいせつに対する考え方に非常に大きな影響を及ぼしている・・・(中略)・・・そういう状況で、おそらく国民の多くのわいせつに対する考え方、こういうものもかなり大きく変わっているのではないだろうか、」(同4頁)、「警察が摘発しないからといって、当該文書のわいせつ性がた立ちに否定されるということではありません。ただし、事実上、長い間、取締りがなされていない、ごく普通に書店でそういう本を購入することができる、社会にごく普通に流通している、こういう事実が長く続きますと、わいせつという概念が指し示す事実の範囲がかなり狭くなってきたといえるんじゃないか、」(同5頁)と述べているが、このように、現在、社会一般のわいせつ概念の指し示す事実は大きく変化し、性表現の自由が大幅に拡大されてきている。
現在流通している性をテーマとした書籍の多くは、前記した「四畳半襖の下張事件」の基準をそのまま適用すれば、いずれも「わいせつ」であると認定されるようなものである。こうした現状の下においては、性欲を興奮又は刺激させる、普通人の正常な性的羞恥心を害する、善良な性的道義観念に反するというわいせつの定義の指し示す内容も、大きな変ぼうを遂げているといわざるを得ないのであり、従前の「四畳半襖の下張事件」の基準では、到底刑法175条の合憲性を維持することは出来ない。


 2 21世紀に相応しいわいせつ性判断基準とは

(1) 第1において検討したように、裁判所は、表現の自由の重要性という問題意識からわいせつ規制の範囲を限定し、表現の自由が認められる領域を拡大しようと努力を続けているが、わいせつ問題に関するリーディングケースであるチャタレー判決が「しかし著作自体が刑法一七五条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。問題の著作は現存しており、裁判所はただ法の解釈、適用をすればよいのである。このことは刑法各本条の個々の犯罪の構成要件に関する規定の解釈の場合と異るところがない。この故にこの著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、『個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない』こと原判決が判示しているごとくである。」として「わいせつ性」の判断をあくまでも事実認定の問題ではなく、法的評価の問題であるとしている。
社会通念を社会の実態に基礎をおいた事実的判断に基づかせるのではなく、客観的な根拠に基づいた反証を許さない規範的評価に委ねるのであれば、どれだけ判断方法の具体化をしたとしても、裁判官による独断的な判断を防止する基準としては機能し得ない。その結論は、社会の実態と乖離し、市民が納得し、また、市民に対し自己の表現行為が果たして処罰されるものであるか否かについて明確な予測可能性を与えることはできない。
    裁判所は社会通念について観念的に判断するのではなく、裁判所に提出された証拠を慎重に吟味し、社会の実態に即して社会通念を判断しなくてはならない。

(2)  では、21世紀において、どのようなものが「いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」と言えるのであろうか。
    まず、チャタレー3要件からも明らかなように、「わいせつ」とは性的なものに対する規制である以上、「わいせつ」図画あるいは文書と言えるためには、「社会通念に照らし、現実に性器または性交行為を見るのと同程度に強く性欲を刺激または興奮させるような露骨、詳細で生々しい態様で性器または性交行為が表現されていること」が最低限外形的な要素として必要である。
    また、これに加えて、表現の自由に対する制約を必要最小限度にするという観点から、「表現物を全体的に観察して、性を興味本位に捉え専ら読者の性欲の刺激に向けられたものと認められること」を要求すべきである。
    なお、刑法175条の保護法益が善良な性風俗、最低限の性秩序の維持にあある以上、その判断基準は成人を基準とするべきであり(園田寿証人尋問調書第8頁)、また、特定の読者層や性欲を刺激されやすい者、特異な性欲を持ついわゆる変態性欲者を基準にするのではなく、性的な普通人を基準に判断されなくてはならない。


 3 「蜜室」の性的な刺激の強さ

(1) 検察官は、「極めて大胆な写実的手法を用い、微に入り細をうがって克明に描写されている」と主張するが、「蜜室」の持つ性的な刺激の強さについて、以下のような証言が存在する。

 ア  園田寿証人は、「『蜜室』については、175条のわいせつ図画に該当しないと私は思っております」と証言し(園田寿証人尋問調書第3頁)、その理由として、「特に第1の要件ですね、いたずらに性欲を刺激、興奮させる、この要件が『蜜室』については欠けるという風に私は思っております」と述べ(同3頁)、さらに、「今回、問題となっている『蜜室』というのは、所詮は漫画でありますから、そういうもので、普通の成人といいますか、大人は、漫画を見て興奮するということはないだろうというふうに思うわけです」(同第7頁)、「最近の傾向としては、審議会に持ち込まれるものはコミック類が確かに多いんです。そういうコミック類と一般に流通しているコミック類を比較しまして、あの『蜜室』が特に内容的にひどいかというと、私個人の意見ですけれども、決してそういう印象は持ちませんでした。」(同16頁)、「内容的にいやらしいといいますかね、特にいやらしい印象があるかというと、そういう印象は得ませんでしたけれども。」(同16頁)、「(漫画自体がそもそもわいせつ物に当たらないというお考えですかという問いに対し)必ずしもそうではないんですけれども。」(同18ないし19頁)、「例えば、最近はコンピューター・グラフィックスという技術が非常に進んでいますから、実写と同じように表現できる技術が今あるわけなんですね。そういう実写と同じような描写といいますか、そういうものであれば、写真とかビデオ以外のものでもわいせつという判断を受ける場合があるだろうというふうに、私は思います」(同19頁)、「そうですね。実写に近いような、極めてリアルに描かれているような、そういう類の絵ならばわいせつという判断を受ける場合があるかもしれない」(同19頁)、「(「蜜室」について)かなりデフォルメされている部分がありますし、リアリティーという面から言いまして、かなりリアリティーは乏しいんじゃないかという風に私は判断したんですけれども。」(同19頁)、「はい。それは何故かといいますと、単体でそれだけ見たらどうかということなんですけれども、先ほどから言っているように、現に有害図書として指定している中にはこれ以上のものがかなりあるんですね」(同24頁)、「漫画の場合でもです。インパクトが違うと思うんです。いや、低い、実写に比べて低いという意味です」(同30頁)、「それは、大人の判断でいいますと、デフォルメだと、そういうことが分かるわけですから。そういうことだと思うんですよね。ビデオとか写真という実写ならばそのままずばりですからイメージの書きたてようがないわけですけれども、絵でデフォルメして書いてある、あるいは文章で強烈に表現してあるというのは、これは話の世界なんだという風に、受け取るほうとしては、受け取るんだと思うんですけれども。」(同30頁ないし31頁)、他に、性的なコミックから受ける性的な刺激、興奮の度合い・程度は実写に比べると格段に落ちるという趣旨の証言(同33頁)をしている。

 イ  長嶋博文証人は、「基本的に漫画というかイラストの場合、性器に似せて書いているんで、実際にそれが性器であるかというのは・・・写真等の場合は相手が、モデルさんがおりますから、それが性器だというのは分かるんですけど、イラストというか漫画の場合には想像で書いてるんで、それが事実性器だということは言えないと重い増すけれども」(長嶋証人尋問調書11頁)、「それに似せて書いてるんだと思いますけれど、実際にそれが性器だというような断言は出来ないと思うんです。ただ、性器に似てるというような形で書いてるとは思われますが。例えば映像とか写真の場合は事実本物を撮ってるわけで、写真に映ってたりビデオを回して撮っているんで、そういうのは性器だとはっきり、これは性器だということはいえますが」(同11頁)、「写真とかビデオの場合ですと、そのまま本物ですよね、本当の性器ですから。医学書に付いてる、そういった出版物についてもそうですけど、漫画の場合は本物じゃないですよね、それに似せて書いてるんで、それが性器かというのはちょっと、どうなのかなと思うんですけど。性器と検事さんのほうからおっしゃられるんであれば、映像とか写真というのは本物のモデルさんの性器を撮ってるわけですから、それは本物の性器と言えますけど、漫画の場合は本物の性器じゃないんで、性器かどうか分からないと思いますけど」(同12頁)と証言している。

 ウ  斉藤環証人は、「極端にサイズが大きく描かれているとか、身体的な比率が非常にアンバランスになっているとか、そういったことも含めて、我々解剖学を学んだものからすれば極めてアンリアルなファンタジックな絵であるとしか言いようがないものだと思います。」(斉藤環証人尋問調書20頁)、「漫画の中でも特に顔を中心として誇張が著しい図像表現ですから、その図像表現によって性欲を刺激されるためには、かなり小さいころからそういった図像にさらされている、一種のトレーニングを受けている、あるいは一種の学習をしているという文脈がなければ、そもそもそういう欲望を感ずるということが起こりにくいと。それからもう1点、通常メディアを利用して性欲を喚起する場合には、一般的にはやはり写真であるとかアダルトビデオであるといったポルノグラフィ、実写に基づくポルノグラフィのほうがはるかに効率が高いわけで、わざわざこういう漫画という効率の悪い方法で一般の人が性欲を喚起する必要がないと。この2つの方向があります。」(同24頁)と証言している。

 

 



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※尚、このレポートはメモ及び記憶を元に作成されており、あくまで公判のイメージを伝えるためのものですので、多少の記述の食い違いは御容赦ください。
※転載は自由です。
※制作は児ポ法改悪阻止青環法粉砕実行委員会が行なっています。 また、制作に当たり匿名の方の協力をいただきました。



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