第11回公判 最終弁論
弁論要旨 その3

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 エ  藤本由香里証人は、「(『これまで証人は、今の話だと、いろんなポルノグラフィをご覧になったという話なんですが、それらのポルノグラフィの描写と比べて、この「蜜室」における性描写が、格別に過激であるということは言えますか?』という問いに対し)いえ、特に過激であるというふうには思いませんでした。むしろ、このぐらいのものでしたらほかにもあるのではないかというふうな印象を持ちました。で、数あるポルノグラフィの中では、むしろストーリー的にも割としっかりしているし、不快感が割合に少ないものではないかという印象も受けました。」(藤本由香里証人尋問調書第3頁)、「(『今回の「蜜室」という漫画は、かなりけっこう描写など細かいんですけれども、それでもやはり性器部分や性器結合部分にはデフォルメが施されていると思いますか?』という問いに対し)「はい。デフォルメがはっきりと施されていると思います。恐らく、実写であれば、先ほどちょっと性器の描写の違いを言いましたけれども、あれほどきれいに開いた感じの性器というのはなかなか難しいんじゃないかというふうにも思うんですね。そういうことも含めまして、かなりデフォルメはされているというふうに言えるのではないでしょうか。」(同15頁ないし16頁)、「(「『蜜室』が性欲を喚起する度合い、性的に刺激する度合いというのは、いわゆる実写の写真、あるいはアダルトビデオに比べると強い、弱いどっちでしょう」という問いに対し)だから、実写のほうが恐らく一般的な方にとっては強いだろうという風に思われます」(同15頁)と証言している。

 オ 被告人はデザイン学校に通う他、自身も元漫画家であり、出版社を経営するようになってから作家の作品を検討するために研鑽を続け、絵に関しては専門家といえるが、「漫画の絵がリアルだと言う方々がたくさんおられるんですが、僕はそんなふうに思ったことは1度もないんですよ。なぜかと言いますと、人間のアウトラインをやっぱり線で書いていくというものがリアルだというおっしゃるおっしゃり方がまずおかしい。」(第9回被告人供述調書第18頁)、「物体は、光が当たって初めて、その物体だということが分かるわけです。そこには確かにアウトラインらしきものは見えるんだけど、本当はアウトラインは無いわけです。その「無いもの」を漫画はかき足さなきゃいけないわけです。絵を志している人たちは、そのアウトラインを書いた時点で、漫画がリアルだということはだれも言わないと思います。それと、漫画は白黒だということですね。色彩がそこへ何一つ被ってない。これをリアルだとおっしゃている人たちの認識がどの辺にあるのか、私は分かりません。もう1つは、絵を描くというのは一体どういうことかと言いますと、本当の絵を描くというのは体の構造から描いていかないと絵になりません。骨の骨格がどうしたらどう動くか、筋肉がどう動くか、血管がどこにどう入っているか。レオナルドダビンチは人を3体も解剖をすることから、描くことを始めているわけです。漫画の絵がリアルであるという話を簡単にされると、絵描きにとっては困ってしまいます。」(同18頁)、「色は色というだけで表現力を持っています。人間の肌の色は、それはそれだけで肌を表現することができます。写真ではありませんけど、着色したことで、少しリアルというか、そのものに近づきますので。」(第19頁)、「絵と写真は全く違うと思っております。」(同22頁)、「写真と絵というのは何が違うかと言ったら、全く違うわけですよ。絵というのは人のイメージなんです。それを作家性というわけですよ。だから、写真というのは被写体があってだれでも写せるものを写真というわけです。頭の中のイメージを書き出すものなんです。全く違うものなんです。」(同22頁)、「(「絵と写真では人間が受ける性的な刺激の度合いというのは違うと思いますか?」という問いに対し、「全く違うんじゃないですか。例えば100人が写真を見れば100人ともそれと分かりますが、100人が絵を見ても100人全員が理解できるわけではないと思います。」(同22頁ないし23頁)、「(「例えば「蜜室」と同じようなカットを漫画じゃなくて、例えば写真で作ったとすれば、写真で作ったもののほうがやっぱり刺激が強いということですか?」という問いに対し、「それはみんなが共通するものが一杯ありますから、全然強いんじゃないかと思います。」(同23頁)、「それはあくまでも女性性器に似たものでしかないわけですから、受け取る側が違うように受け取れば、違うんじゃないかと思うんですけどね。」(同23頁)、「(写真で撮った性器を見るとみんな性器だというふうに認識するけど、漫画に描かれた性器を見ると、性器に似たものだから性器を連想すると、そういうことですか?」という問いに対し)はい、そうです。」(同23ないし24頁)と供述している。

(2) 被告人及び証人らは「蜜室」には、相当程度のデフォルメが施されていること、性的な刺激については他の表現物、特にいわゆる実写の性表現物に比べるとその程度は大幅に落ちるということで一致した供述をしているが、これは、「手描きの絵」である「蜜室」と基本的には「写真」である実写の性表現物の違いに由来するものである。

 ア そもそも、写真とは被写体が発する反射光、または自発光をレンズを通してエマルジョン(乳剤フィルム)に固定したものである。写真とは物理的な反射光、または自発光を写し取った忠実な複写物であり、いわゆるトリック写真をとることも十分に可能なことではあるが、通常の写真の場合は人間の恣意的な表現は図画に比べて入れにくいという性質があり、そのため、人は写真に写っているものは現実に存在したと考える傾向にある。
   したがって、性交、性器、性器結合場面など(以下、「性交シーン等」という)を写真撮影、あるいはフィルム撮影した場合、それは、性交シーンなどの正確な複写であるから、それを見た人は、このような性交シーンなどが現実に存在したものと考え、これらを見るに際し、実在の性器、実際に行われた性交等と結びつけてこれを認識する。そのため、これがそのまま、公開されあるいは流通した場合には、実際の性行為などが公然と行われた場合に近いものと考えることができる。

 イ これに対し、「手描きの絵」に関して言えば、構図をはじめとして、物の大小、色などすべての部分について容易に人の恣意的な操作が可能であるし、デフォルメも施されている。人も絵をそのようなものであるとして認識している。したがって、ある事象が「絵」による表現されていたとしても、人がそれを実在の事象と結びつけて考える度合は写真に比べて低いといわざるを得ない。
しかも、現実の世界は色彩や音に満ち溢れているのに対し、紙メディアである絵にはアダルトビデオなどと違って音もないし、白黒のマンガであるから色彩もない。
したがって、そもそも、性交、性器、性器結合場面など(以下、「性交シーン等」という)を白黒の「手描きの絵」によって表現した場合、人は性交シーンなどの正確な複写とは考えず、それを見た人は、このような性交シーンなどが現実に存在したものとは考えないであろうし、実在の性器、実際に行われた性交等と結びつけてこれを認識することもないであろう。

 ウ 「手描きの絵」にも作成者の技量、巧拙、技法などにより完成度の違いがあるが、「蜜室」は検察官の言うように写実性を目指そうとした絵では決してなく、独自の文法にしたがって描かれた「漫画」というある種特殊なカテゴリーに属する白黒の「絵」であり、漫画特有のデフォルメが施されている。例えば、人物に関していえば、目が極端に大きく円盤状に描かれ瞳も非常に大きく描かれているのに対し、口元は非常に小さく、鼻もちょんと添えられる程度の描かれ方をされていること、手足が平坦に描かれていること、それから髪型が現実にはありえない形をしていることなど、実在の人間とは大分かけ離れている。性器描写などについても、実際の人間では後述するように綺麗に開いていることはありえないし、また、性器の部分だけが他の体の部分とのバランスの割りに大きいこともありえず、実在の性器とは大分かけ離れている。なお、実際の性行為には付随する音や色彩がなく、実物と大分かけ離れていることは先にも述べたとおりである。
「蜜室」は、純然たるフィクション、作者の持つ性に関するイメージの投影に過ぎないものであり、通常の「手描きの絵」以上に、実在の人間の性器、性行為とはかけ離れたものであり、普通人の性欲を刺激するものであるかどうか、はなはだ疑問である。
「蜜室」は、主として読者の好色的興味に訴える作品ではあるが、一般的な普通人はその作品からエロティシズムを感じることがあったとしても、性欲を興奮・刺激されるとまで言えるかどうか疑問であり、仮に刺激されたとしても、実写の場合に比べて性欲を刺激される度合は相当に低く、「現実に性器または性的行為を見るのと同程度に強く性欲を刺激または興奮させる」とは到底言いがたい。

 エ なお、念のため、「蜜室」のもたらす性的な刺激の性質についても補足的に検討する。
   仮に、「蜜室」が性的な刺激をもたらすとしても、それは、漫画という固有の特徴を持ったキャラクター表現に親和性を持つ一部の人間に向けられた刺激であって、一般人に向けられたものではなく、しかも、その刺激によりもたらされた性的な興奮はあくまでも架空のキャラクターに対するものであり、実在の人間に向かうものではなく、マスターベーション行為により発散されて完結してしまうものであり、普通人を基準とした判断を行う「わいせつ」の概念にそもそも馴染まないものであり(斉藤環証言参照)、あるいは、本を閉じてしまえばそれは消える、あるいは、「マスターベーションなりセックスなりをすればそこで消えるものであって、それが翌日まで持ち越されて頭の中にもんもんとあって日常生活に影響を与えるようなそういうふうな力のあるものではな」く(藤本由香里証人尋問調書第16頁)、チャタレー判決の想定しているように、「人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵」するようなものでは決してないのである。

 オ これらの事情を総合すれば、「蜜室」は「主として読者の好色的興味に訴える」ではあるが、決して「現実に性器または性的行為を見るのと同程度に強く性欲を刺激または興奮させる」ものとは言えないことは明らかであり、決して、性に関する良心を麻痺させ、秩序・性道徳の無視を誘発するに足りるほどの過激な表現でもない。
なお、見る人によってはこれをグロテスクであるとし、あるいは直視することに違和感を持つ可能性のあることまでは必ずしも否定しないが、それは個人のし好や美意識の問題であって、これを直ちに性欲の興奮・刺激に結び付けるのは過度の反応というべきである。

4 「蜜室」は「性を興味本位に捉え、専ら読者の性欲の刺激に向けられたもの」か。

 ア この点、検察官はその論告において、「性器、性戯、性交の描写部分が全体のほぼ3分の2を占めており、その分量と構成からしても「蜜室」が性行為の描写 白体を目的としていることはあまりにも明らか」「各編において、男女が次々に体位を変えて性交を繰り返してゆく様を具体的かつ詳細に描写している上、その間に性交に密接するさまざまな口淫その他の性戯を織り交ぜ、また性交、性戯に伴う男女の表情、姿態の変化、性器の模様、興奮時における発生音、性液の状況等々に至るまで、極めて大胆な写実的手法を用い、微に入り細をうがって克明に描写されている。」「『蜜室』は、全体を通じ、性行為を興味本位 に取り上げ、しかも露骨に描写しており、専ら読者の好色的興味に訴えるものと認められる」と述べている。

 イ しかしながら、そもそも、「専ら好色的興味に訴えるもの」が「わいせつ」なのではない。これは、近年における出版状況を見れば明らかである。
  また、性器や性行為それ自体は人間の営みの重要な側面であり、人間を描こうとする場合には避けて通れないものであり、性を描写せずには描けない人間の姿が存在するのであるから、性器や性行為が作品の中で持つ文脈を考慮せずに、単にその量的な側面及びさまざまな性のあり方について描写していることを捉えて、直ちに「性行為の描写白体を目的としていることはあまりにも明らか」、「専ら読者の好色的興味に訴えるものと認められる」という結論を導くことも、勿論「専ら読者の性欲の刺激に向けられたもの」という結論を導くことも短慮であり、間違いである。

 ウ この点、「専ら読者の性欲の刺激に向けられたもの」(「専ら読者の好色的興味に訴えるもの」でも構わないが)と言えるか否かを判断するには、少なくとも「蜜室」のようなマンガ作品の場合には、その性器描写、性器結合場面を捨象してもなお、テーマがあるか、ドラマ性があるかを検討することが最も簡単かつ確実な方法である。
   「蜜室」は、8つのエピソード(8、9話は前後編で同一のエピソード)から構成される短編集であるが、一貫して描かれているテーマは、お互いに快楽を交換するセックスの過程で女性がだんだんと感じ、そして気持ちも体も開いていき、そして喜んで男性を受け入れていく様子、あるいは、親和性のある密着感とか、相手との体でのつながりというような人間の性の本来の姿とでもいうべきエロティシズムであり(参照、藤本由香里証人尋問調書12頁参照)、決して検察官の主張するように性を興味本位に捉えているわけではない。むしろ、逆に、検察官が「蜜室」により侵害されたと主張する「杜会の健全な性秩序・性風俗」に合致する健全な性のあり方を表現するに過ぎないのである。
   また、いずれのエピソードも成功場面とシチュエーションだけが存在するという他のポルノグラフィとは違い、短編集ではあるが、個々の短編について、人物造形やストーリーに工夫を凝らし、絵による描写についても、俯瞰を用いたり、あるいはアングルを工夫したりしている(同4頁参照)。具体的に検討すると、第1話においては良い作品を作ろうとするAV撮影スタッフの意気込みが描かれており、第2話においてはセクハラ被害にあっている女性は立ち直り、加害者に対し逸し報いており、第3話においては、登場人物のなれそめあるいは恋愛が描かれているし、第4話と第5話においては、高校生カップルの恋愛物語を描きつつ、避妊などについても言及している。第6話においては、最後に奇想天外のどんでん返しが待っているし、第7話においては、SMプレイにおいて女性を激しく責める男性の人物像実に描かれている。前後編になっている第8、9話は、読み物として十分に通用するサスペンスとなっている。

 エ 検察官は、論告において、「蜜室」が性行為を興味本位に取り上げている根拠として、「『相思相愛』においては、男がSM嬢の女性に暴力を用い催淫剤を使用するなどして性交に及ぶ様子を、また『這いずりまわる』では、数名の男が女性を監禁しカッターナイフ様の凶器を使用するなどして次々に輪姦して陵辱するなどの様子をそれぞれ扇情的な筆致で生々しく露骨に描写しており、ここでは女性が完全に男性の性的快楽の対象あるいは性の玩ろう物として描かれている。」と述べているようである。
   しかしながら、第7話「相思相愛」において催淫剤は、暴力シーンから、自分から求めさせられたように見せかけるシーンを経て、実は自分から求めていたという「落ち」へと向かう流れに話をスムーズに展開するための小道具であり、頁数に制約のあるマンガにおいて、不自然さを払拭するために利用されているに過ぎない(同25頁参照)
   また、「這いずりまわる」における、女性を虐待し、陵辱しているというシーンは、主人公の女性がこの関係を全く楽しんでないということをはっきり出すという意味で用いており(同25頁参照)、それは、この作品において主人公の女性が受ける暴力や陵辱行為が徹頭徹尾主人公の女性にとって嫌な行為、非常な痛みを伴う行為であることが、作品の所々においてくっきりと描かれていることからも明らかである(同9頁ないし10頁参照)。
   したがって、検察官によるかかる指摘は、弁護人の推察するような意図に基づくものであったとしても、的外れであるという他は無い。

 オ 検察官は公判において証人尋問する都度、ぼかしの上から性器、成功場面が見えることに固執している。これも検察官の「性行為を興味本位に取り上げている」、「専ら好色的興味に訴えるもの」という主張の根拠のつもりなのであろう。
   確かに、一見すると性器は緻密に書かれている印象は受けるが、全体の作品から見たときに、性器描写の果たしている役割というのは、むしろ、お互いにある種柔らかい部分を交換している密着感とか、体温の温かさなどの感覚をよみがえらせるという役割を担っており(同12頁参照)、作者にとってのテーマである男性とのセックスによって女の人が喜びを感じてだんだん開いていく、自然に気持ちも体も開いていくエロスの象徴としてこの性器描写は機能している(同12頁参照)。
   「蜜室」の全体的なテーマが相互交感的なセックスによるエロスである以上、基本的に自然に開いた女性器が書かれていることが、当然、圧倒的に多いが、例えば、「這いずりまわる」というふうな作品においては、陵辱される前の女主人公の性器は非常にぴったりと閉じている。また、第2話において、女主人公が店長に望まない性交を強いられているときの女性器は非常に雑に書かれており、閉じているのに対し、相互交換的なセックスをしたあとには、性器が開いている。
「蜜室」における性器描写は、作者が意識的に女主人公のある種の快感のバロメーターとして、相互交換的なエロスを主人公の女性が得ているのか否か、その密着感や温かさということを視覚的、感覚的に表すために利用されている小道具なのであり、専ら読者の性欲を刺激するためのツールとしてそういう性器描写が存在するわけではない(同12ないし13頁参照)。
   したがって、検察官の主張ないし示唆はやはり失当である。


第3 結論

1 これまでに検討したとおり、「蜜室」は読者の好色的な興味に訴えるような作品ではあっても、「専ら性欲の刺激に向けられた作品」ではないし、ましてや、社会における性秩序、性道徳を乱すに至るほど強く性欲を刺激する作品では決してない。
 また、「蜜室」は人間の性をそのテーマとしているが、これまでにも述べてきたように、そこに作者が描こうとしているものは、極めて健全なエロスであり、そこに性欲が喚起されるとしても、それは読者の理性を麻痺させるようなものでもない。

2 このように、「蜜室」を取り締まることと最小限度の性秩序・性道徳の維持との間には何らの関連性もないのであり、捜査当局が「蜜室」が「わいせつ図画」に該当するとしてこれを取り締まったのは、刑法175条の解釈を誤ったものというほかはない。

  結論、被告人は無罪である。



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※尚、このレポートはメモ及び記憶を元に作成されており、あくまで公判のイメージを伝えるためのものですので、多少の記述の食い違いは御容赦ください。
※転載は自由です。
※制作は児ポ法改悪阻止青環法粉砕実行委員会が行なっています。 また、制作に当たり匿名の方の協力をいただきました。



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